祇園祭とは何か歴史を簡単にわかりやすく解説!いつから始まったその起源は?

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京都の祇園祭は、
大阪天満宮の天神祭り・東京 神田明神の神田祭と並んで、
日本三大祭りの一つに数えられている祭典です。

7月17日の山鉾巡行や、巡行の前日『宵山』、
17日と24日の神輿渡御なども、広く知られる祭りの行事です。

ここ最近、24日の後祭り巡行の復活や、大船鉾の復活も話題となり、
ますます祇園祭は有名になってきました。

年々暑さが厳しくなってきた昨今ですが、
京都の夏は、盆地のせいもあってかなり厳しく、
人ごみに溢れる宵山の鉾町界隈は、さらにヒートアップします。

しかし、祇園祭は、宵山や巡幸の日だけでなく、
7月1日から始まり、1ヶ月にわたる行事で、
そのすべてを知り尽くしている人は少ないように思えます。

祇園祭のいわれや歴史、変遷などをたどると、
先人の振興や知恵が見えてきます。

祇園祭をさらに深く知り、実際に鉾町を歩けば、
京都の町衆のあそび心や心意気まで見えてくると思います。

  

祇園祭のはじまりの歴史と八坂神社に祀られている御祭神は?

祇園祭は八坂神社のお祭りで、
その八坂神社の御祭神は、
素戔嗚尊(スサノオノミコト)
櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)
八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)の三柱とされています。

八坂神社は、かつては牛頭天王(ゴズテンノウ)を祀り、
『祇園社』とか『祇園感神院(ギオンカンジンイン)』と呼ばれていました。

八坂神社とは、
明治元年の神仏分離によって改められた称号なのです。

牛頭天王とは、
インドでは釈尊の祇園精舎の守護神で、
中国では道教の神様、
朝鮮半島では、
熱病に効く栴檀(せんだん)を産した『牛頭山』の神様とされています。

ではなぜ、八坂神社の御祭神が、牛頭天王から素戔嗚尊になったのか?

実は、御祭神が替わったのではなく、
素戔嗚尊と牛頭天王は、同一神とみなされているのです。

『日本書紀』には、
素戔嗚尊は、朝鮮半島の新羅の国(しらぎのくに)にあまくだり、
『ソシモリ』のところにいる、という記述があって、
そのソシモリというのは、韓国語で『牛頭』を意味します。

そのため、牛頭山の神である牛頭天王が、
牛頭の地にいる素戔嗚尊と同一視されたということです。

二人とも荒ぶる神でしたが、
きちんとお祀りして味方につければ、
強力な御加護がいただける神様なのです。

また、武塔(むとう)神とも習合されます。

日本固有の神道と、
インドで成立した仏教、中国の道教などが習合した祇園の神様は、
『インターナショナルな神様』といえます。

ところで、祇園祭は、
もとは『祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)と呼ばれていました。

御霊とは、この世に恨みを遺して亡くなった怨霊の神様のことですが、
世の中に起こる災い、つまり天災や疫病などは、
荒ぶる御霊(みたま)である御霊が祟りをなしたものだと考えられていました。

この神様を鎮めることができれば、災いを除けることができるという、
『御霊信仰』が元になっているのです。

貞観十一年(869年)、京の都をはじめ全国に疫病が流行したとき、
神泉苑に当時の国の数(66ヶ国)にちなんで、
66本の矛を立て、祇園社の神様をお祀りし、
さらに神輿を出して、悪疫退散を祈ったという記録があり、
これが祇園祭のはじまりだと言われています。

祇園祭の歴史 変遷と山鉾巡行

もとは祇園御霊会といわれた祇園祭ですが、
その始まりは平安時代中期、
ちょうど遣唐使が廃止され、国風文化が隆盛し始めたころでした。

平安時代後期には、
旧暦 6月7日の御旅所への神迎えや、
14日には祇園社への神送りをする形ができつつあったということです。

鎌倉時代の末期まで、祇園祭は神輿渡御が中心で、
御霊会では、神様を喜ばせるための風流(ふりゅう)を競ったようで、
『年中行事絵巻』の行列には、
扇鉾や鉾4本などが、神輿の前を行く姿が描かれています。

無骨法師が、
大嘗祭の標山(しめやま)に模したような『柱』をつくったため、
朝廷から停止させられたという逸話も残っているなど、
山や鉾は、素朴な形のものがもうすでにあったようです。

散楽(のちに猿楽に移行した芸能)や、
田楽も参加して、山車(だし)の上で演じられ、
とりわけ『枕草子』にも登場する、
馬長(うまおさ)と呼ばれる童は人気があったと伝えられています。

院や宮家から寄進された獅子舞が、
神輿とともに巡幸したというのも興味深いところです。

ともあれ、民間信仰の色彩が強かった祭りに、
朝廷がささげものを奉じる形で祇園御霊会は行われ、
官祭となっていたのです。

祇園祭に今のような山鉾巡行が登場するのは、
南北朝時代からです。

すでに平安時代末期の保元の乱以降は、
馬上役制が創設され、
洛中の富裕層が祭りの費用を負担するようになっていました。

そして鎌倉時代には、馬上十二鉾といって、
鉾に縣物(かけもの)をつけて、馬が神輿に加わって巡行し、
『剣鉾』が祭りに参加しました。

南北朝の頃には、神事として神輿や十二鉾などが巡行するとともに、
住民が鉾衆となり、
主体的に行動する風流で賑やかな祭りとなっていったということです。

室町時代には、現在のような定型の鉾以外に、
毎年、趣向を決めて出る鉾もありました。

『祇園さん』への信仰とともに、
祭りを遊びで盛り上げようとする気運が高まり、
趣向を競い合うようになっていったということです。

そして、人々が神輿よりも関心を寄せていった山鉾巡行は、
下京の町の人々挙げての祭事として発展していったのです。

人々を楽しませる風流としての山鉾は、
応仁元年(1467年)には、だいたい固定化した形になっていきましたが、
応仁の乱以前には60基の山鉾が祭りを賑わし、
応仁の乱以降の明応9年(1500年)には、36基が復興しました。

幾多の変遷を経ても、町衆の信仰や心意気、
風流の精神はずっと生き続けてきたのです。

祇園祭の蘇民将来(そみんしょうらい)と巨旦将来(こたんしょうらい)

古くから牛頭天王は武塔神ともされ、
また素戔嗚尊とも習合されていたのは、
『伊呂波宇類抄』や『釈日本紀』などの文献に見られますが、
釈日本紀が引用する『備後国風土記』には、次のような説話があります。

武塔天神が、北から南へお嫁さん探しの旅に出た時、
裕福な巨旦将来に宿を乞うたのですが断られ、
貧しかった兄の蘇民将来の家では、快くもてなしを受けたのです。

その後、妻ができた武塔神は、八柱御子を連れて再び蘇民の家を訪れ、
返礼として、
『蘇民とその家族、子孫にいたるまで茅の輪を腰につけている者は、
疫病の厄を免じさせる』と約束しました。

そののち、腰に茅の輪をつけていない者は、疫病で全滅したということです。

神様は、『我はカムハヤスサノオの神なり』といい、
古くから、祇園社の縁起であったとされています。

ですから、祇園祭の“厄除けちまき”には、
『蘇民将来子孫也』と書かれた護符が添えられ、
軒下に吊るしておくのです。

この風習は、実は牛頭天王の信仰以前から、韓国にあったと言われ、
また、中国でも端午の節句にちまきを食べる習慣があり、
ユダヤの『過ぎ越しの祭り』に似ているところも興味深いものです。

あとがき

祇園祭は、京都に住んでいるものにとって、
無意識の中に存在する、あって当たり前のお祭りなんです。

寒くなり、一年が終わるとお正月が来るように、
梅雨が終わるころ、京都の街中が祇園祭一色になるのです。

祇園祭は八坂神社のお祭りですが、
鉾が建ち並ぶ鉾町からは少し離れています。

狭い通りの角々に立ち並ぶ鉾がある『鉾町』は、
普段は京都随一のオフィス街で、
『室町』と呼ばれるその界隈は、
古くから繊維関係や呉服関係の専門卸の老舗がたくさんありました。

鉾町の人々は、昔からこの祇園祭のスポンサー企業として、
祇園祭を支えてこられた方々なのですが、
昨今は、そういった老舗が次々と立ち退き、
マンションやホテルがたくさん建ってしまいました。

京都にはたくさんの古くから伝わるものがありますが、
それを伝え繋いでいくということが、
どれほど難しいことかということを考えてしまいます。